思案と思弁

日記やらエッセーやらを載せていきます。

今日観たアニメについて

・『アンデッド・アンラック』(1話)

 原作は週刊少年ジャンプが積み上げてきたバトル漫画の伝統、つまり「車田正美的なもの(必殺技を叫び続けるターン制バトル)」と「冨樫義博(『ハンターハンター』)的なもの(戦略が勝敗を決する頭脳バトル)」の混淆・継承をハリウッドアクションの文法によって(それもまた、成田良悟的な想像力に依拠したエミュレートのエミュレートであるが)表現しつつ、その後に立ち現れた西尾維新的なもの(現代伝奇・異能力バトルの拡張と言葉遊び)を援用することで、王道でありながらどこか異質な作品世界を構築することに成功した漫画だった。それは松井優征とは別の仕方でロジカルな生存戦略の結実であった。だが、それは本来、ジャンプの中でしか通用しないガラパゴスな戦略でしかないはずだった。

 このアニメはそうしたある種限定的な作品の魅力を拡張するために、シャフト──とりわけ、西尾維新作品との関わりを強くし始めた2010年代のシャフトの演出を参照した。それは原作の「西尾維新的なもの」を問い直し見つめ直す作業である。

 

・『Re:CREATERS』(1話)

 TYPE-MOON、およびゼロ年代伝奇ラノベのノスタルジー

 いま・ここの現実(関東、それも都心という、限定された領域ではあるけれど)を人ならざるものたちの戦場が侵略し、破壊・撹乱して去っていくということ。その安らぎ。それは取りも直さず、かつてラノベに人を向かわせた欲動そのものだ。

 

・『葬送のフリーレン』(1話)

 『さよ朝』が切り開いた、緻密かつ荘厳なディティールをCGによって表現する、ソリッドな世界観を活写する方法論ではなく、むしろ古典的ともいえるジブリアニメ(高畑勲宮崎駿の方法論)の、水彩画のようなタッチによって表現されたアレゴリカルな世界観を活写する方法論によるアニメ時空間の創出。それこそが、このアニメが選び取ったものであった。

【感想】『アリスとテレスのまぼろし工場』──相互監視と蹂躙の見られる歪な青春アニメとして

 かなり面白かった。コンテンツ論とかキャラクター論を期待して行ったが(そして実際それに満足もしたが)、それ以外の部分──正直に言えば世界観設計──の部分でかなり胸が熱くなった。

 

 神機狼、という設定があり、これは「ひび割れ」、つまりあるべき世界とのズレを自動的に修正(抹消)する装置だという。それは先に触れたコンテンツ論とも繋がってくるある種の装置でもあるんだろうけど、なんというか、それが実際に機能するときの極端さがたいへん面白かった。

 

 失恋したら死ぬ。というより、失恋を処理しきれなければ死ぬ。実存に悩んだら死ぬ。変わりたいのに変われなかったら死ぬ。この極端さは、自意識の極端さそのものでもある。そしてそこには、大人も子どももなかった。ズレが、葛藤が、ただちに死と接続している。この身も蓋もないが、同時にどこか身に覚えのある極端さは、デスゲーム的な軽薄さ(ゴミのように、訳もなく人が死んでいく。結局、そのことの価値はあまり真剣に回収されえない)を踏み越えたところにある極端さでもあるように思う。そしてそうした極端さはどこかディストピア的でもあり、そういう意味で、この作品は「ディストピアもの」としても観ることができる。それもただのディストピアではなく、サブカルチャー的な、パロディのようなカジュアルなディストピア(ある種のボカロ小説的、というのは露悪的に過ぎるだろうか)と、文芸的な、寓意性の高いディストピアの歪な混淆として。

 

 作品の舞台である見伏は、時が止まる以前からすでに出ることの叶わない田舎として描かれていた。そこに生きる人々は製鉄所の作り出す産業の檻の中でのみ生存が許されている。そしてそれは、時が止まった後さらに強化されることになる。工場から吹き出し続ける煙は常に人々のひび割れを見張っており、そうした価値観の内面化として(もちろんそれだけじゃないけど)、人々は「自己確認表」の提出を推奨されている。内と外、その両方からもたらされる監視。管理。ニュースピークも真理省もないが──いや、だからこそこれは『1984年』の未来像だ。あそこに描かれた自己規範の問題はあらゆる状況に拡張が可能だ。

 

 「山奥の田舎」とはユートピア小説の構造だが、そこに楽園がないということを、僕らはもう知ってしまっている。過疎化。そこにはただ、古い時代の遺骸が残るのみだ。だからここに描かれるディストピアは率直な「いま・ここ」のディストピアでもある。だがその閉塞性、フーコー的な相互監視は、先に触れた「死」とセットになっていた。

 

 そこがまぼろしの世界であることをいいことに、キャラクターたちはばたばたと死んでいき、そして最後に、世界そのものが崩壊する可能性が提示される。終盤のカーチェイスや啖呵で忘れがちだが、彼らは滅びの運命を背負わされている(余談になるが、終盤のシークエンスの大部分が必要だったかは未だに疑問である。特にアクション映画としては売っていなかったはずだし、敵役もいないし……)。

 

 この映画は荒削りだ。小説版を読んでちょっと驚いたが、演出意図が十分に反映されていないシーンも多い(演説・会見のシーンとかね)。だがそれでも、自意識とディストピアの取り合わせを、歪なディティールで、高い熱量で描ききった佳作であることに変わりはないと思う。夏の終わりの、ひとときのまぼろしとして、この映画は僕の中にいつまでも存在し続ける。

 

性懲りも無く

 AIイラストレーションに対して感じるある種の忌避感の源泉は、わりとその粗製濫造性にあるような気がする。粗製濫造とその大量公開の何がいけないかと言うと、その製作物は単純にセンスがなく下手だからだ。ツールを使った創作に求められるのは、ツールそのものの補助を超克する技量、センスだが、それのない製作物はひどいものだ。無論、ひどい製作物を公開すること自体は悪いことではない。問題なのは、それがしばしばうんざりする量投下されるという点にある。

 女性向け創作、とりわけBLコンテンツにおいてそうした粗製濫造はあまり見られないのだが、それとはまったく異なる形で、男性向け創作における粗製濫造には凄まじいものがある。イラスト生成AIの登場によって一気に霞んでしまった感があるが、ちょっと前までのCG製作物の粗製濫造には目を瞠るものがあった。

 AIそのものではなく、その粗製濫造性への忌避。かなりの割合で、反AI的イデオロギーはそこに依っているのではないか。

 かくいう僕もその一人だ。AI技術が新しい表現をもたらしうる、という視点には同意するし、時には、ある程度創作者の権利が保護されたAIで遊ぶこともある(絶対はないだろう。完全に、プリミティヴな権利の保護されたAIが今のところあるとは思えない)。けれど現状、イラスト生成AIはセンスのない人間が自分のセンスのなさを露呈させるために用いられている。AIフィルターが導入される以前のPixiv(主に男性向けに調整されたページ)の地獄。それが、イラスト生成AIの作り出した風景であることを否定することはできないし、その風景に対して本職のイラストレーターが感じたであろう憎悪は、生半可なものではなかったはずだ。

 願わくば、今後AIは創作者の権利に十二分に配慮したうえで、創造的な熱意をもった人間と適正にマッチして欲しい。AIの可能性を最大限に活かす、その気概がある人間を潰さない世界が来ればいい、と思う。

 「誰もが使える技術」を、誰にもできない仕方で用いること。それこそが、あらゆる創作の始まりであるはずだ。小説にとっての言葉。イラストにとっての線。それは誰にでも開かれている技術だった。そしてそれをうまく使える人間だけが、深い苦しみと、それがもたらすささやかな救いを享受する、相剋した存在としての(プロの)創作者になる。そしてそれは、AIにおいても変わらないはずだし、そこが変わってしまえば、その瞬間にあらゆる想像力は枯れ果てるだろうと思う。

 AIがすべての創作を蹂躙する毒とならないことを切に願う。

「恋愛」と村上春樹

 えー、自分が「恋愛」に対して屈折した思いを抱いているというのもあるのだろうが、随分と最近まで、村上春樹作品(『ノルウェイの森』とか)にはいわゆる恋愛、つまりヘテロセクシャルな男女が出てきて儀礼的なやり取りを経て愛を成就させる、という(しかし書き連ねてみると実に陳腐な紋切り型である)ラノベ的、虚構的に再現された恋愛は期待されていないものだと思っていた。彼はそういうモチーフに対してシニカルな作家であり、そのファンもそうなのだ、と。

 しかしどうもそうではないことが分かってきた。あれはなんというか、要するに憧憬の対象にされているモチーフであって、自分がかつて期待していた俯瞰とかシニカルさとかいったものはどこにもないのだ。

 ヘテロセクシャルな嗜好を持つ男女が出てくる。そしてやたらめったらとセックスをする。だが主人公は疎外感や喪失感を抱え、内省的な文学は生を謳歌する方向へは向かわない。この構造の中で、それでもなお恋愛(性欲)を信じられる、というのが僕には信じられないのだが、その確信それ自体が、この現代文学の精神文化からは疎外されているらしい。

 というか、冷静に考えてみればこれは明らかに認知の歪みである。そこに立ち現れたものを正しく認識できていない。自分が望むように文脈をこじつけている。起きながらにして夢を見ているようなものだ。そういえば『ねじまき鳥クロニクル』はそんな話だった。

 いかにして歪むか。それが問題だ。

 『ねじまき鳥クロニクル』の中で主人公は満州における虐殺(歴史的事実、というより、ある歴史的状況から演繹された虚構の個人史だ)と自分を取り囲む状況を照らし合わせ、茫洋として中心の見えない状況を秩序立てようとした。ある個人の悪性を自分ではない人物の言葉で表現し、夢を均そうとした。ライターのさやわか氏が指摘したように、この構造は後に『ドラゴンクエストVI』に受け継がれる。このシリーズ──天空三部作、と呼ばれる「ロト」以降のシリーズは夢と現実の関係、こう言ってよければフィクションと現実の関係を取り扱うが、そうしたテーマは『ねじまき鳥』にも存在する。だがファンタジーによって解釈された現実が歪みを内包しないでいることはありえない。

(書き途中)

景和のこと

 そろそろ景和も帰還しそうなので、ここ数話に対しての雑感を綴ろうと思う。

 正直に、端的に言えば、ここ数年の闇堕ちで一番乗り切れた、と断言できるだろう(次点で或人)。しかしなぜなのかと言われれば、これに答えるのは難しい。

 ビジュアルやら演出やらのの仄暗い格好良さもあるだろうが、どうもそれだけではないような気がしていた。物語それ自体もまた、しかるべきシャープさを獲得していったように感じたからだ。それは美術の面を超えている。

 しかし今話でようやくその理由がわかった……ように思う。これはいずれ全く別のものに変質するかもしれないし、そうなれば書き直されることになるだろう。

 


 要するにコードの問題だったのだ、とまず言ってみる。

 


 たしか『シン・仮面ライダー』について書いたときも同じような論点を用意していた記憶がある。あるテーゼ、あるイデオロギー、ある意図。それらを複合したコードを書き込まれること。それによってここ数話の景和は動いていた。家族を失って空白になった彼の中には、物語全体からもたらされたコードが、複数人によって書き込まれた(ケケラからはイデオロギーを、ジットからは目的を)。そして彼は、ケケラが言うところの「本当の仮面ライダー」になったのだ。だがそれは、空虚な中心の存在を保証しはしない。

 その中心、核には、復讐心がある。それも具体的な対象に向けられたものではない、世界全体に対する復讐心が。

 『仮面ライダーギーツ』における世界とは一つのレイヤーのようなものであり、いくらでも相対化が可能な実存だ。だからそれは他のフィクションに対して、キャラクターとの距離が近く、意識されやすい。世界を変える権利、というとき、それが現実の重みを持つこと。これこそが『仮面ライダーギーツ』に固有のテーマ性だった。あるいは、現実なるものの重みがあらゆる領域から剥落することが。

 そうした構造の制約の中に、景和もまた位置付けられていた。だから彼の憎悪は、彼の復讐は全方位に向けられたのだ(そもそも全方位に「原因」は存在した。この曖昧さ、この複雑さは令和ライダーの特色かもしれない)。

 今話のギーツとの決着は、そうした流れの臨界点に位置する。ギーツは世界を背負う。相対化されうる世界全てを背負う。そうしたキャラクターとして成立している。だから景和は彼と戦うしかなかった。

 そして戦いそのものが無効になったとき、復讐心は宙吊りになり、その向かう先を失う。

 景和が刀を英寿に向けたとき、そこにあったのはやはり復讐心だっただろう。だがそれは、ごく狭隘なものを意味しない。その復讐心もまた、世界を書き換えるファクターとして機能していた(であろう)からだ。

 復讐心そのものを解体したうえで、それが存在したことを無碍にはしない、という姿勢は、僕にはとても誠実なものと見える。この作品は復讐に対してコンシャスだ。ある両義性にのみ拘泥しない、複雑さをそれそのものとして受け止める姿勢は。

 僕の好感は、たぶんその辺りにある。

『シン・仮面ライダー』配信によせて、愚痴

 シン・仮面ライダーに自分が期待していたのは、わりと『MGS4』の最終決戦みたいな感じだったのかもしれない、と最近思う。シリーズの総括としてのメタ演出。それがあれば、やっぱり僕はシン・仮面ライダーを手放しで肯定できたんだろうと。

 嫌いな作品ではない。けれど僕はライダーファンとして、この作品を賞賛し他人に勧めることができない。なぜって、そこにはあるべきもの、然るべきものが欠けているからだ。

 それは「これまでのリメイク作品」という視点。ひいては、「仮面ライダーというコンテンツが50年続いてきた」という視点だ。

 だいたい、初代仮面ライダーのリメイクはそう珍しいものではない。ライダーは定期的に原点回帰を、直接的なかたちで行い続けてきた。『仮面ライダー(新)』(スカイライダー)や、『真・仮面ライダー序章』を筆頭とするネオライダー三部作、『仮面ライダーTHE FIRST』、『仮面ライダーTHE NEXT』、紙媒体では『仮面ライダーSPIRITS』も挙げられるだろう。だがそうしたすべてへの言及は、件の『シン・仮面ライダー』には何一つなく、それどころか、先述の作品が積み重ねてきた手練手管をすべて無視するかたちで成立していた。

 僕はそのことに、やっぱり憤らずにはいられない。それは断絶であり、そして庵野秀明というクリエイターへの絶望でもある。彼はどこまでも初代『仮面ライダー』のファンとして映画を撮る事に決めたのだ。そして50年の歩みに背を向けた。偏愛という、映画的時間に落とし込むにはあまりに脆いそれを貫き通すことを選んだ。そうして、僕は、ライダーファンとしての僕は永遠に置き去られた。

 そのことを素直に悲しむことができるようになったのはつい最近のことだ。そんな折に『シン・仮面ライダー』が配信され始めたのは数奇な偶然である。

 ようやく、まっさらな気持ちであの映画と向き合える時が訪れたのかもしれない。

 

感情なきシステムとか

 ふと思ったのだが、生成AIがいずれクリエイターに取って代わるようになる、というような言説を広めている連中、あるいはそうした言説に否定的な感情を抱いていない連中のどれくらいが、実際に生成活動を行っているのだろうか。

 連中の論理に則れば、AIは自分たちの望むものをすべて生成してくれるから個々のクリエイターには価値がなくなるはずである。しかし今現在、大分ノウハウも確立したはずの生成AIを使って望む絵を出力して「閉じた」愉しみを得ている人間の数は驚くほど少ないように思う。依然として人間の描いた絵は拡散され続け、AI生成絵は排除され、そうしたものたちを拒否する言説がラディカルなかたちで表出する。ここ数ヶ月の流れは何ら変わっていない。社会は──少なくとも文化・芸術の領域においては──何一つ変わっていないようにみえる。

 無論、そうした反駁に対して彼らは無神経ではない。彼らの論理はたいてい「いずれ」とか「将来的には」とか「技術が発展すれば」とかいった言葉で締めくくられる。彼らはしきりに、自分たちが問題にしているのはいま・ここではないことを明示する。しかしながら、それは欺瞞ではなかろうか。いま・ここにおいて理想的な形で運用されていないシステムが、未来において突如理想型を取るというのは、なんら根拠のない妄想にすぎないのではないか。

 将来的にクリエイターの仕事は無化され、すべて自動化されるのか。ここ数ヶ月ではっきりしたことは、そうした問いに対してイエスと答えられるだけの現実を、僕らは作り出せなかったという事実ではないだろうか。自動化された現実に、僕らは耐えられないし、それを信じることもできない。AIはいずれ雑味を克服するのかもしれない。今AIを否定する言説がその下部構造にもつ、あらゆる根拠は無化されうるのかもしれない。それでも、人間が人間である限り、その先はないのではないだろうか。僕らは僕ら自身の認識という牢獄に閉じ込められていて、技術の発展がそれを埋め合わせることはない。受容される限りにおいて、AIは少し便利な道具というだけのものに成り下がるのではないだろうか。

 無論法整備は必要だろう。著作権やその他権利の問題はどうしようもなく、僕らの前に横たわっている。けれどそれは、あくまで「政治」の問題だ。政治の問題、「公」の側に属する問題は、結局のところ、究極的には「個」たりえない。そして僕らという「個」は、本質的にAIを拒んでいるのではないだろうか。