思案と思弁

日記やらエッセーやらを載せていきます。

景和のこと

 そろそろ景和も帰還しそうなので、ここ数話に対しての雑感を綴ろうと思う。

 正直に、端的に言えば、ここ数年の闇堕ちで一番乗り切れた、と断言できるだろう(次点で或人)。しかしなぜなのかと言われれば、これに答えるのは難しい。

 ビジュアルやら演出やらのの仄暗い格好良さもあるだろうが、どうもそれだけではないような気がしていた。物語それ自体もまた、しかるべきシャープさを獲得していったように感じたからだ。それは美術の面を超えている。

 しかし今話でようやくその理由がわかった……ように思う。これはいずれ全く別のものに変質するかもしれないし、そうなれば書き直されることになるだろう。

 


 要するにコードの問題だったのだ、とまず言ってみる。

 


 たしか『シン・仮面ライダー』について書いたときも同じような論点を用意していた記憶がある。あるテーゼ、あるイデオロギー、ある意図。それらを複合したコードを書き込まれること。それによってここ数話の景和は動いていた。家族を失って空白になった彼の中には、物語全体からもたらされたコードが、複数人によって書き込まれた(ケケラからはイデオロギーを、ジットからは目的を)。そして彼は、ケケラが言うところの「本当の仮面ライダー」になったのだ。だがそれは、空虚な中心の存在を保証しはしない。

 その中心、核には、復讐心がある。それも具体的な対象に向けられたものではない、世界全体に対する復讐心が。

 『仮面ライダーギーツ』における世界とは一つのレイヤーのようなものであり、いくらでも相対化が可能な実存だ。だからそれは他のフィクションに対して、キャラクターとの距離が近く、意識されやすい。世界を変える権利、というとき、それが現実の重みを持つこと。これこそが『仮面ライダーギーツ』に固有のテーマ性だった。あるいは、現実なるものの重みがあらゆる領域から剥落することが。

 そうした構造の制約の中に、景和もまた位置付けられていた。だから彼の憎悪は、彼の復讐は全方位に向けられたのだ(そもそも全方位に「原因」は存在した。この曖昧さ、この複雑さは令和ライダーの特色かもしれない)。

 今話のギーツとの決着は、そうした流れの臨界点に位置する。ギーツは世界を背負う。相対化されうる世界全てを背負う。そうしたキャラクターとして成立している。だから景和は彼と戦うしかなかった。

 そして戦いそのものが無効になったとき、復讐心は宙吊りになり、その向かう先を失う。

 景和が刀を英寿に向けたとき、そこにあったのはやはり復讐心だっただろう。だがそれは、ごく狭隘なものを意味しない。その復讐心もまた、世界を書き換えるファクターとして機能していた(であろう)からだ。

 復讐心そのものを解体したうえで、それが存在したことを無碍にはしない、という姿勢は、僕にはとても誠実なものと見える。この作品は復讐に対してコンシャスだ。ある両義性にのみ拘泥しない、複雑さをそれそのものとして受け止める姿勢は。

 僕の好感は、たぶんその辺りにある。