思案と思弁

日記やらエッセーやらを載せていきます。

感情なきシステムとか

 ふと思ったのだが、生成AIがいずれクリエイターに取って代わるようになる、というような言説を広めている連中、あるいはそうした言説に否定的な感情を抱いていない連中のどれくらいが、実際に生成活動を行っているのだろうか。

 連中の論理に則れば、AIは自分たちの望むものをすべて生成してくれるから個々のクリエイターには価値がなくなるはずである。しかし今現在、大分ノウハウも確立したはずの生成AIを使って望む絵を出力して「閉じた」愉しみを得ている人間の数は驚くほど少ないように思う。依然として人間の描いた絵は拡散され続け、AI生成絵は排除され、そうしたものたちを拒否する言説がラディカルなかたちで表出する。ここ数ヶ月の流れは何ら変わっていない。社会は──少なくとも文化・芸術の領域においては──何一つ変わっていないようにみえる。

 無論、そうした反駁に対して彼らは無神経ではない。彼らの論理はたいてい「いずれ」とか「将来的には」とか「技術が発展すれば」とかいった言葉で締めくくられる。彼らはしきりに、自分たちが問題にしているのはいま・ここではないことを明示する。しかしながら、それは欺瞞ではなかろうか。いま・ここにおいて理想的な形で運用されていないシステムが、未来において突如理想型を取るというのは、なんら根拠のない妄想にすぎないのではないか。

 将来的にクリエイターの仕事は無化され、すべて自動化されるのか。ここ数ヶ月ではっきりしたことは、そうした問いに対してイエスと答えられるだけの現実を、僕らは作り出せなかったという事実ではないだろうか。自動化された現実に、僕らは耐えられないし、それを信じることもできない。AIはいずれ雑味を克服するのかもしれない。今AIを否定する言説がその下部構造にもつ、あらゆる根拠は無化されうるのかもしれない。それでも、人間が人間である限り、その先はないのではないだろうか。僕らは僕ら自身の認識という牢獄に閉じ込められていて、技術の発展がそれを埋め合わせることはない。受容される限りにおいて、AIは少し便利な道具というだけのものに成り下がるのではないだろうか。

 無論法整備は必要だろう。著作権やその他権利の問題はどうしようもなく、僕らの前に横たわっている。けれどそれは、あくまで「政治」の問題だ。政治の問題、「公」の側に属する問題は、結局のところ、究極的には「個」たりえない。そして僕らという「個」は、本質的にAIを拒んでいるのではないだろうか。