思案と思弁

日記やらエッセーやらを載せていきます。

「恋愛」と村上春樹

 えー、自分が「恋愛」に対して屈折した思いを抱いているというのもあるのだろうが、随分と最近まで、村上春樹作品(『ノルウェイの森』とか)にはいわゆる恋愛、つまりヘテロセクシャルな男女が出てきて儀礼的なやり取りを経て愛を成就させる、という(しかし書き連ねてみると実に陳腐な紋切り型である)ラノベ的、虚構的に再現された恋愛は期待されていないものだと思っていた。彼はそういうモチーフに対してシニカルな作家であり、そのファンもそうなのだ、と。

 しかしどうもそうではないことが分かってきた。あれはなんというか、要するに憧憬の対象にされているモチーフであって、自分がかつて期待していた俯瞰とかシニカルさとかいったものはどこにもないのだ。

 ヘテロセクシャルな嗜好を持つ男女が出てくる。そしてやたらめったらとセックスをする。だが主人公は疎外感や喪失感を抱え、内省的な文学は生を謳歌する方向へは向かわない。この構造の中で、それでもなお恋愛(性欲)を信じられる、というのが僕には信じられないのだが、その確信それ自体が、この現代文学の精神文化からは疎外されているらしい。

 というか、冷静に考えてみればこれは明らかに認知の歪みである。そこに立ち現れたものを正しく認識できていない。自分が望むように文脈をこじつけている。起きながらにして夢を見ているようなものだ。そういえば『ねじまき鳥クロニクル』はそんな話だった。

 いかにして歪むか。それが問題だ。

 『ねじまき鳥クロニクル』の中で主人公は満州における虐殺(歴史的事実、というより、ある歴史的状況から演繹された虚構の個人史だ)と自分を取り囲む状況を照らし合わせ、茫洋として中心の見えない状況を秩序立てようとした。ある個人の悪性を自分ではない人物の言葉で表現し、夢を均そうとした。ライターのさやわか氏が指摘したように、この構造は後に『ドラゴンクエストVI』に受け継がれる。このシリーズ──天空三部作、と呼ばれる「ロト」以降のシリーズは夢と現実の関係、こう言ってよければフィクションと現実の関係を取り扱うが、そうしたテーマは『ねじまき鳥』にも存在する。だがファンタジーによって解釈された現実が歪みを内包しないでいることはありえない。

(書き途中)