思案と思弁

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【感想】『アリスとテレスのまぼろし工場』──相互監視と蹂躙の見られる歪な青春アニメとして

 かなり面白かった。コンテンツ論とかキャラクター論を期待して行ったが(そして実際それに満足もしたが)、それ以外の部分──正直に言えば世界観設計──の部分でかなり胸が熱くなった。

 

 神機狼、という設定があり、これは「ひび割れ」、つまりあるべき世界とのズレを自動的に修正(抹消)する装置だという。それは先に触れたコンテンツ論とも繋がってくるある種の装置でもあるんだろうけど、なんというか、それが実際に機能するときの極端さがたいへん面白かった。

 

 失恋したら死ぬ。というより、失恋を処理しきれなければ死ぬ。実存に悩んだら死ぬ。変わりたいのに変われなかったら死ぬ。この極端さは、自意識の極端さそのものでもある。そしてそこには、大人も子どももなかった。ズレが、葛藤が、ただちに死と接続している。この身も蓋もないが、同時にどこか身に覚えのある極端さは、デスゲーム的な軽薄さ(ゴミのように、訳もなく人が死んでいく。結局、そのことの価値はあまり真剣に回収されえない)を踏み越えたところにある極端さでもあるように思う。そしてそうした極端さはどこかディストピア的でもあり、そういう意味で、この作品は「ディストピアもの」としても観ることができる。それもただのディストピアではなく、サブカルチャー的な、パロディのようなカジュアルなディストピア(ある種のボカロ小説的、というのは露悪的に過ぎるだろうか)と、文芸的な、寓意性の高いディストピアの歪な混淆として。

 

 作品の舞台である見伏は、時が止まる以前からすでに出ることの叶わない田舎として描かれていた。そこに生きる人々は製鉄所の作り出す産業の檻の中でのみ生存が許されている。そしてそれは、時が止まった後さらに強化されることになる。工場から吹き出し続ける煙は常に人々のひび割れを見張っており、そうした価値観の内面化として(もちろんそれだけじゃないけど)、人々は「自己確認表」の提出を推奨されている。内と外、その両方からもたらされる監視。管理。ニュースピークも真理省もないが──いや、だからこそこれは『1984年』の未来像だ。あそこに描かれた自己規範の問題はあらゆる状況に拡張が可能だ。

 

 「山奥の田舎」とはユートピア小説の構造だが、そこに楽園がないということを、僕らはもう知ってしまっている。過疎化。そこにはただ、古い時代の遺骸が残るのみだ。だからここに描かれるディストピアは率直な「いま・ここ」のディストピアでもある。だがその閉塞性、フーコー的な相互監視は、先に触れた「死」とセットになっていた。

 

 そこがまぼろしの世界であることをいいことに、キャラクターたちはばたばたと死んでいき、そして最後に、世界そのものが崩壊する可能性が提示される。終盤のカーチェイスや啖呵で忘れがちだが、彼らは滅びの運命を背負わされている(余談になるが、終盤のシークエンスの大部分が必要だったかは未だに疑問である。特にアクション映画としては売っていなかったはずだし、敵役もいないし……)。

 

 この映画は荒削りだ。小説版を読んでちょっと驚いたが、演出意図が十分に反映されていないシーンも多い(演説・会見のシーンとかね)。だがそれでも、自意識とディストピアの取り合わせを、歪なディティールで、高い熱量で描ききった佳作であることに変わりはないと思う。夏の終わりの、ひとときのまぼろしとして、この映画は僕の中にいつまでも存在し続ける。