思案と思弁

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澱んだ虹彩のために──『アイリス』雑感の雑感

 大体すべての作品には「読み方」があるように思う。無論、鑑賞に正解はないのだが、鑑賞体験を満ち足りたものにするための、不可避の与件のようなものは歴然と存在するはずだ。少なくとも僕はそう確信している。

 作品に、作品の持つ可能性に対して、適切に期待すること。その姿勢を整えておくこと。それは作品を規定する情報が秘匿されている限り決して事前に形作ることのできないものだ。だがそれを発見できない限り、作品は常に他人事として人生からすり抜けていく。いつからか、僕はそう考えるようになっていた。そして今も。

 『アイリス』はしかし、そうした僕の陳腐な独断をやすやすと踏み越えた。雛倉さりえによるこの小説は、独立した二部構成という、やや特異な構造をしている。無論、脱構築を志向する文学ジャンルにおいてはありふれた手管なのだろうし、実際、この「仕掛け」は事前に広告その他公開情報によって開示されているものなのだろうが、それでも、この作品が特異であることに変わりはないように思う。

 作品が特異であればあるほど、その「読み方」は複雑・深化する。鑑賞に必要となる認識の層が無際限に増殖し、知性が限界まで酷使されて灼け落ちる。大抵の場合、僕はその様を、烈しい怒りとともに眺めることしかできない。

 だがこの小説は違った。この小説は──ひたすらに「うつくしいもの」で満たされたこの小説は、鑑賞態度を、「読み方」を、決断するよりも速く僕の中に根を下ろしたのだ。

 言葉それ自体もそうだが、その「目線」によって、この小説は、虚構も含めた「世界」に横溢した「うつくしさ」をどこまでも純粋に活写する。それは全体に機能的に統合されていながら、どこか遊離した、奇妙な存在感をもって我々に迫る。

 『ジェリー・フィッシュ』の時は、短編であるがゆえにさほど感じることのなかったことだが──雛倉さりえという作家のもたらす小説体験は、潜水に似ているように思う。

 深い青の世界に身体を埋めること。「肉」の原理に貫かれた、濃密で満ち足りた、しかしそれゆえに寂寞の気配をまとう世界へと身体を沈めてゆくこと。そうした唯一無二の小説体験が、いまここにある。その名は『アイリス』。虹彩の地獄に咲く花菖蒲。

 感想は改めて書くが、この小説が多くの人に届くことを切に願う。