思案と思弁

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【雑感】終わらない冬、天国の片隅から

 数十分前から、石川博品著『冬にそむく』を読んでいた。52ページにさしかかった辺りでそれを卓上に置くと、ほとんど衝動的な勢いでポメラを開き、テクストを紡ぐ作業を開始する。打鍵音は厭にはっきりと、埃まみれの室内の空気を打った。まるで責め立てるように。

 

 美波のケトルが音を立ててコーヒーを注いだとき、「ぼく」のケトルは玄関先で資源回収に出されるのを、ただ神妙な顔で待ち続けていた。

 まったくひどいものだ、と思う。ぼくは昨日、苛立ちに任せてケトルを壊してしまったのだった。壊すつもりはなかった。いくつかの苛立ちが重なって棚を蹴った結果として、ケトルは自由落下してその身体を地面に打ち付けたのだ。その際にその頭はぱっくりとひび割れてしまった。花弁のように、というのは詩的に過ぎる表現だし、適切じゃない。そのひび割れは表面のテクスチャーを侵すことなく、ただ、調和を保ってその身体と共存していた。道具としては不能になったケトルは、それでも原型を留めたまま、ぼくに挑みかかってくるようにさえ見えた。

 ひどい虚無感と苛立ちがあった。でもそれも、30分もすればきれいさっぱりなくなってしまった。まるで都合良く、その記憶だけを削除したかのように。布団にうずくまったことも、堰を切ったように泣き出したことも、すべてが虚構の存在感をもって、今でも、ただ、あの過去に鎮座している。

 時折自分が異常なのではないかと思うが、それは理想化がすぎるというものだろう。ぼくは何も特別な人間じゃない。つまらない男だ。つまらない人生の結果として、この現在がある。

 陸の孤島の片田舎から都会に出てきて既に一ヶ月が経った。ひどい状況はなんとか切り抜けたが、認識まではどうしようもないようだった。ぼくはぼくという怪物を処理できないまま、ゆるやかに死に向かって歩いている。足取りは重い。多くの人がそうであるように。

 

 青春小説とぼくの間に断絶を感じたのは初めてではなかった。けれど、いまここにある絶望感は、そうした過去の断絶とは比べものにならないものだ。なぜって、読んでいる作品自体が面白いことは、痛いくらいに伝わってくるからだ。繰り返せば、まったくひどいものだ。ぼくの不寛容が、いま、この小さな文庫本をさえ傷つけている。

 こうも断絶があるものか。ぼくはそれを痛感していた。

 ぼくは高校生活の大半をあのくそったれな感染症とともに過ごした。ぼく自身も、そしてぼくの家族も感染こそしなかったものの、その影響は、多くの人がそうであるように免れ得ないものだった。

 とはいえ、それは微々たるものだったのだろう。父は──詳細は伏せるが公務員のようなものだし、母は専業主婦で、新型感染症による打撃は、世間の中では最も少ない部類の家庭だったはずだ。

 なぜそのような身の上話をしたのかというと、この後に連なる断絶を書くうえで個人の話は外せないと思ったためだ。これは言わばアンカーだ。ぼくを茫漠とした世界から個人の領域に、矮小なこの身体と人生につなぎ止めるための。

 ぼくは実際のところ、社会が言うほどにはあの感染症の影響を被らなかったと言っていいはずだ。無論それは相対的なものだし、主観的なものであるようにも思うが、とにかく、ぼくはそう書くしかない。

 ぼくはリモート授業を受けることもなければ、陰謀論に染まることもなかった。さすがに文化祭は中止になったし、その拡大版である総合文化祭も中止になり辛酸をなめることになったが、そんなことはほとんど問題ではない。ここでぼくが言いたいのは、しばしば上の世代が言う「抑圧」というのが、まったく実感を伴わない、浮動した言葉に変貌してしまっているということだ。

 無論、これもまた主観だ。いかれているのはぼくだけだ。どうかぼくと同じ世代の人間を責めないでやってほしい。

 とにかくぼくは社会と断絶していた。誰かの抑圧も、誰かの憐憫も、ぼくにとってはすべて他人事だった。

 例の感染症が流行しだしてから数年。学生の自殺者数が過去最多になったというニュースがあった。だが、その数字のセンセーショナルさが先行して、その詳細はあまり顧みられていなかったように思う。集計方法が間違っていなければ、あのデータの死因の中で最も多かったのは「学業不振」だったはずだ。体育祭がなくなっても、文化祭がなくなっても人が死ぬことはない。だが受験戦争のシェルショックは、確実にぼくらを犯し続けていたのではないか。そして、その痛みは今も続いているのでは。

 痛み。それを拭い去るものとして恋愛があるのかもしれない、と時折思う。

 非モテだとか、弱者男性だとかいう言葉もあるようだが、そんなものを持ち出すまでもなくぼくはそうした言葉たちが見つめる対象であるところの「健全な」世界からは遠く隔たっていた。だからその本質を掴むことはできない。だが、それは結局のところありふれたものの一つに過ぎないのかもしれない。圧倒的な信頼と、こう言ってよければ伝統的権威の傘の下に位置づけられている男女関係というのは、酸素のように存在し続けているのかもしれない。そして、ぼくはそうしたすべてを知らない。ぼくにとって恋愛とは常に虚構であって、演出され制御されうるものにすぎなかった。ただ、享受することだけができない。少なくとも、自意識と自己愛に充ちたこの種の表現を持ち出してこなければ何も語れないほどには、ぼくはその世界からは隔たっている。そしてそのことは絶望ではない。それさえも自分からは遠い。

 そうして、あらゆる時代評は、あらゆる社会評論は、ぼくの身体をすり抜けていった。

 断絶だけがたしかにある。それだけがぼくが社会に対して感じられることだった。抑圧でも包摂でもなく、断絶だけがそこにあること。それだけがぼくにとっての現実だった。

 そうした原理が小説を規定することはたぶん、健全で、またありふれたことなのだろう。しかし──それでは、この寂しさをどう処理すればいいというのだろう。

 そんなことを思いながら、ぼくは再びこの本を開く。