思案と思弁

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「search/サーチ」(2018)雑感

 偶然観る機会を得たので、映画『search/サーチ』を鑑賞した。最近公開された「2」ではなく古い方だ。といっても2018年公開なので、その描写は全く古びていなかった。度重なるバージョンアップを経ても、WindowsらしさやMacらしさは損なわれないものだな、と奇妙な安堵感を覚えつつ、気付けば、流れていくこの映画に102分、ただ没入していた。ここではそれについて書いていく。ネタバレには配慮していないのでご容赦を。

 無論、この映画について語る上で、GUIについて触れないわけにはいかないだろう。全編がコンピュータ上の画面の中で進行する本作には、慣れ親しんだサイトが──こう言って良ければグラフィックスが無数に登場する。主人公は探偵でもなければ警察官でもなく、諜報組織のスパイでもない。ゆえにオープンソースの情報網から情報をかき集めるしかないのだが、その手管は我々が普段、身近なことについて調べる時のものと全く同じだ。Googleの検索ページ。ニュースサイトのクリップ。YouTubeのサムネイル。そうした無数のウィンドウたちが寄り集まってマトリクスを形成し、電子の海へと回路を開いた時、彼のサーチは開始される。そこに生まれる映像的快楽は、デジタル・デバイスに囲まれた生活を送る我々から最も近い位置にあるがゆえに、最も分かりやすく、また最も親しみやすいものだ。アクションにもラブロマンスにも比肩しうるサスペンス。それがここにはある。
 物語は立て続けに発生する謎によって牽引される、王道の、端正なサスペンスだが、恐らくただのミステリーだったらまず見向きもされないような筋書きだろう。悲しいことに、今やサスペンスは、端正なだけでは訴求力を持ち得ない。だがこの映画は、その筋書きを一流の者として演出することに見事に成功している。先述したようにここには慣れ親しんだサイトがいくつも登場するわけだが、そうした記号たちはすべて、事態に現実の質感を与えるうえで役に立っているのだ。
 敢えて広く主語を取らせてもらうが、僕らはモニターを通して世界を認識している。パソコンのモニターを、あるいはスマートフォンのモニターを通して。メディアとして、この二つ以上の利便性と即応性を持ちうるものは現代においては存在しない。だから、現代の現実を描く上で、日常と、生活と密接に結びついたサイトを画面に写すことはこれ以上ないほど有効なのだ。繰り返せば、僕らはモニターを通して世界を認識している。
 そしてそれゆえに、僕らにとって常に社会的事件とは、騒乱とは、サスペンスとは、画面の向こうの事態なのだ。だがこの映画は、そのことを批判的には描き出さない。誰かにとっては胸を引き裂かれるほど痛ましい事件であったとしても、それを対岸のこととして処理することのできるこのメディアに対する批判は、ここにはない。なぜか。それはそうした批判が、もはや有効ではないからだ。
 ポスト・トゥルースの時代が来たと言われて久しい。いつの間にかトランプはアメリカ大統領ではなくなったし、誰も──少なくともここ日本やアメリカでは──公の場で、イギリスとEUの関係についてしっかりと時間をとって議論をしようとする者はいなくなった。そうして、真実の飽和は、僕らの生活にべったりと張り付いてしまったのだ。日々生み出され、我々を打ちのめしてはどこかへ消えていく濁流のような情報の群れは、もはや冷笑的な態度やそこから派生した相対主義では受け流せないほどに濃い。そんな中で、メディアそれ自体を批判することに一体何の意味があるのか。それで、どのような未来を提示できるというのか。せいぜい、原始時代か、より現実的に、数世紀前への退行を(不可能とわかっていながら)叫ぶのが関の山だ。こと情報という点において、現代は袋小路に陥ってしまっているが、それを打破するためのビジョンは、未だ誰も提示できていない。そんな世相を、この映画は鋭く描き出す。
 ──この映画においては、当事者さえも、事態を画面の向こうの出来事として認識するからだ。
 そう、主人公デビッドもまた、事件を画面を通してしか認識しないし、しえない。だがそれは、彼の置かれた状況が特異だから、というだけではない。それはむき出しの現実のありかたそのものだ。モニターの向こうの電子的情報、それこそが実存を保証する現実の。
 予言でもなくノスタルジーでもなく、いま・ここのデジタル社会を描き出した傑作として、またそれを娯楽へと昇華せしめた映画として、これは存在している。