思案と思弁

日記やらエッセーやらを載せていきます。

シン仮面について、改めて思いつくままに

 わりとそこらで「『シン・仮面ライダー』は『ボーン・アイデンティティー』であり『バオー来訪者』であり『MGS4』(BB部隊周り)なんだよ!」みたいなことを言っているが、はっきりと記述したことはなかったと記憶しているので、改めてここに記載しておく。

 

 しかしなぜ今『シン仮面』なのか。無論これはこの記事全体にかかるような根源的な問いではない。週末批評でシン仮面評を目撃したことが主な原因であり、それ以外にはありえない。

 正直に白状してしまえば、シン仮面評について、僕はひどく苦々しい思いを抱いている。これまでに自分が、ユーモアに富んだ、クリティカルで胸が沸き立つような評論を読むことができていないからだ。勿論、そんな評論が書かれている映画の数はそう多くないし、仮に書かれていたとして、それを名文として、ある種の文学として受容できるだけの素地が自分に備わっているとは言いがたい。それを解決するためには、シン仮面的に言えば「世界を変えるのではなく、自分を変える」必要がある。しかし、自分を変えたところで現実が変わることはない。

 とはいえ、映画の受容においてはそうした主体のありかた、態度が何より重要となる。そのことを、僕は自分がnoteに書いたシン仮面評で思い知った。なんというか、あそこに表現された言葉の多くは浮薄で、芯を捉えられていないように感じたのだ。端的に言って、僕は評価軸を誤ってしまった。見るべきでないところ、掘るべきでないところ、拘泥するべきでないところに紙幅をさいてしまった。それに尽きるだろう。

 今書くとすれば、たぶん冒頭に記したようなモチーフを援用して多角的にやるだろうが、それでも不十分であるような気がする。何かが足りていない。そんな気がする。

いまさら、『ねじまき鳥』について

 本当に今更ながら村上春樹ねじまき鳥クロニクル』を読み終わった。詳細な感想は後々書くとして、ここでは、この小説が僕に思い出させた様々なものについて書いていきたいと思う。

 とは言っても、それはこじつけのような(妄想のような)想起に過ぎない。僕の頭の中を通り過ぎていった様々なもの。それは西尾維新であり、グレート・ギャツビーであり、『Avalon』(押井守)であり、そして宮部みゆき『悲嘆の門』だった。

 『悲嘆の門』。何年振りにこのタイトルを思い出しただろう。僕は少なくとも3年以上、このタイトルについて、あるいはそれが指し示す物語について想いを馳せることがなかったのだ。

 宮部みゆきのファンタジーに対して、僕はそれなりに好感を持っていたはずだ。けれど、『悲嘆の門』は滑らかに、そうあってはならない速度で僕の中をすり抜けていった。輝かしくも鬱々とした青春の1ページとするには、その読書体験はあまりにささやか過ぎた。

 しかし今、僕は卓上の『ねじまき鳥』を横目に見ながら、それについて思いを馳せることに成功している。それは無論何らかの啓示などではない。小説はあくまで小説にすぎない。

 しかし、それにしても懐かしいものを思い出したものだ。……といささか自家撞着めいた表現を記してしまう程度には興奮している。

Twitterから遠く離れて

 今年に入ってからTwitterの不具合が相次いでいることは、インターネットに常駐している人々にとっては(僕も含めて)周知の事実だろうけど、「避難先」についての共通認識だとかコンセンサスだとかいったものはいまだ形成されていないように思う。

 だいたい一つのプラットフォームに依存するのは、たとえ運営体がまともだったとしても危ういものだ。しかし今になってもそうした話が現実的な効果を持ち得ていないことは、2010年代のTwitterがいかに信頼されてきたか、ということの証左でもあり、また依存されてきたか、ということの証左でもあるように思う。

 ……とまあ小難しいことを書いたが、更新されないTLを目にして、まず僕の脳裏に浮かんだのはミーバースのことである。

 ミーバースニンテンドーがかつて運営していたSNSだ。ゲーム専用の、若年層でも利用できるSNSと銘打って発表されたこれは、若年層の過密ゆえの治安の悪さや、運営体の混乱で解体を余儀なくされた。当然、当時僕もこのサービスを利用していたのだが、子供ながらに「サービス終了」の経験、とりわけSNSの消滅を経験したことは、心に深い影を落としたように思う。

 SNSの消滅とは、人間関係を一瞬のうちに消滅させかねない重大な事態だが、しかし、同時に十分に起こりうる事態でもある。ミーバースを利用していた人は、こうした言及にきっと共感してくれることだろう。

 

 ここにこうした文章を──とりとめもない文章を書きつけている理由はその辺りにある。要するに僕はなんというか、避難先をブログにできないか、と考えているのだ。この形式を僕はそれなりに気に入っている(ルビも打てるしね)。

 一番の問題は、あまりに筋道を立てずに書くものだから、文章が読みにくいということだろうが、これは致命的だ。まあそれ以外にも、そもそも検索になかなか引っ掛からなかったりするというものもあるが……

澱んだ虹彩のために──『アイリス』雑感の雑感

 大体すべての作品には「読み方」があるように思う。無論、鑑賞に正解はないのだが、鑑賞体験を満ち足りたものにするための、不可避の与件のようなものは歴然と存在するはずだ。少なくとも僕はそう確信している。

 作品に、作品の持つ可能性に対して、適切に期待すること。その姿勢を整えておくこと。それは作品を規定する情報が秘匿されている限り決して事前に形作ることのできないものだ。だがそれを発見できない限り、作品は常に他人事として人生からすり抜けていく。いつからか、僕はそう考えるようになっていた。そして今も。

 『アイリス』はしかし、そうした僕の陳腐な独断をやすやすと踏み越えた。雛倉さりえによるこの小説は、独立した二部構成という、やや特異な構造をしている。無論、脱構築を志向する文学ジャンルにおいてはありふれた手管なのだろうし、実際、この「仕掛け」は事前に広告その他公開情報によって開示されているものなのだろうが、それでも、この作品が特異であることに変わりはないように思う。

 作品が特異であればあるほど、その「読み方」は複雑・深化する。鑑賞に必要となる認識の層が無際限に増殖し、知性が限界まで酷使されて灼け落ちる。大抵の場合、僕はその様を、烈しい怒りとともに眺めることしかできない。

 だがこの小説は違った。この小説は──ひたすらに「うつくしいもの」で満たされたこの小説は、鑑賞態度を、「読み方」を、決断するよりも速く僕の中に根を下ろしたのだ。

 言葉それ自体もそうだが、その「目線」によって、この小説は、虚構も含めた「世界」に横溢した「うつくしさ」をどこまでも純粋に活写する。それは全体に機能的に統合されていながら、どこか遊離した、奇妙な存在感をもって我々に迫る。

 『ジェリー・フィッシュ』の時は、短編であるがゆえにさほど感じることのなかったことだが──雛倉さりえという作家のもたらす小説体験は、潜水に似ているように思う。

 深い青の世界に身体を埋めること。「肉」の原理に貫かれた、濃密で満ち足りた、しかしそれゆえに寂寞の気配をまとう世界へと身体を沈めてゆくこと。そうした唯一無二の小説体験が、いまここにある。その名は『アイリス』。虹彩の地獄に咲く花菖蒲。

 感想は改めて書くが、この小説が多くの人に届くことを切に願う。

「search/サーチ」(2018)雑感

 偶然観る機会を得たので、映画『search/サーチ』を鑑賞した。最近公開された「2」ではなく古い方だ。といっても2018年公開なので、その描写は全く古びていなかった。度重なるバージョンアップを経ても、WindowsらしさやMacらしさは損なわれないものだな、と奇妙な安堵感を覚えつつ、気付けば、流れていくこの映画に102分、ただ没入していた。ここではそれについて書いていく。ネタバレには配慮していないのでご容赦を。

 無論、この映画について語る上で、GUIについて触れないわけにはいかないだろう。全編がコンピュータ上の画面の中で進行する本作には、慣れ親しんだサイトが──こう言って良ければグラフィックスが無数に登場する。主人公は探偵でもなければ警察官でもなく、諜報組織のスパイでもない。ゆえにオープンソースの情報網から情報をかき集めるしかないのだが、その手管は我々が普段、身近なことについて調べる時のものと全く同じだ。Googleの検索ページ。ニュースサイトのクリップ。YouTubeのサムネイル。そうした無数のウィンドウたちが寄り集まってマトリクスを形成し、電子の海へと回路を開いた時、彼のサーチは開始される。そこに生まれる映像的快楽は、デジタル・デバイスに囲まれた生活を送る我々から最も近い位置にあるがゆえに、最も分かりやすく、また最も親しみやすいものだ。アクションにもラブロマンスにも比肩しうるサスペンス。それがここにはある。
 物語は立て続けに発生する謎によって牽引される、王道の、端正なサスペンスだが、恐らくただのミステリーだったらまず見向きもされないような筋書きだろう。悲しいことに、今やサスペンスは、端正なだけでは訴求力を持ち得ない。だがこの映画は、その筋書きを一流の者として演出することに見事に成功している。先述したようにここには慣れ親しんだサイトがいくつも登場するわけだが、そうした記号たちはすべて、事態に現実の質感を与えるうえで役に立っているのだ。
 敢えて広く主語を取らせてもらうが、僕らはモニターを通して世界を認識している。パソコンのモニターを、あるいはスマートフォンのモニターを通して。メディアとして、この二つ以上の利便性と即応性を持ちうるものは現代においては存在しない。だから、現代の現実を描く上で、日常と、生活と密接に結びついたサイトを画面に写すことはこれ以上ないほど有効なのだ。繰り返せば、僕らはモニターを通して世界を認識している。
 そしてそれゆえに、僕らにとって常に社会的事件とは、騒乱とは、サスペンスとは、画面の向こうの事態なのだ。だがこの映画は、そのことを批判的には描き出さない。誰かにとっては胸を引き裂かれるほど痛ましい事件であったとしても、それを対岸のこととして処理することのできるこのメディアに対する批判は、ここにはない。なぜか。それはそうした批判が、もはや有効ではないからだ。
 ポスト・トゥルースの時代が来たと言われて久しい。いつの間にかトランプはアメリカ大統領ではなくなったし、誰も──少なくともここ日本やアメリカでは──公の場で、イギリスとEUの関係についてしっかりと時間をとって議論をしようとする者はいなくなった。そうして、真実の飽和は、僕らの生活にべったりと張り付いてしまったのだ。日々生み出され、我々を打ちのめしてはどこかへ消えていく濁流のような情報の群れは、もはや冷笑的な態度やそこから派生した相対主義では受け流せないほどに濃い。そんな中で、メディアそれ自体を批判することに一体何の意味があるのか。それで、どのような未来を提示できるというのか。せいぜい、原始時代か、より現実的に、数世紀前への退行を(不可能とわかっていながら)叫ぶのが関の山だ。こと情報という点において、現代は袋小路に陥ってしまっているが、それを打破するためのビジョンは、未だ誰も提示できていない。そんな世相を、この映画は鋭く描き出す。
 ──この映画においては、当事者さえも、事態を画面の向こうの出来事として認識するからだ。
 そう、主人公デビッドもまた、事件を画面を通してしか認識しないし、しえない。だがそれは、彼の置かれた状況が特異だから、というだけではない。それはむき出しの現実のありかたそのものだ。モニターの向こうの電子的情報、それこそが実存を保証する現実の。
 予言でもなくノスタルジーでもなく、いま・ここのデジタル社会を描き出した傑作として、またそれを娯楽へと昇華せしめた映画として、これは存在している。

【雑感】終わらない冬、天国の片隅から

 数十分前から、石川博品著『冬にそむく』を読んでいた。52ページにさしかかった辺りでそれを卓上に置くと、ほとんど衝動的な勢いでポメラを開き、テクストを紡ぐ作業を開始する。打鍵音は厭にはっきりと、埃まみれの室内の空気を打った。まるで責め立てるように。

 

 美波のケトルが音を立ててコーヒーを注いだとき、「ぼく」のケトルは玄関先で資源回収に出されるのを、ただ神妙な顔で待ち続けていた。

 まったくひどいものだ、と思う。ぼくは昨日、苛立ちに任せてケトルを壊してしまったのだった。壊すつもりはなかった。いくつかの苛立ちが重なって棚を蹴った結果として、ケトルは自由落下してその身体を地面に打ち付けたのだ。その際にその頭はぱっくりとひび割れてしまった。花弁のように、というのは詩的に過ぎる表現だし、適切じゃない。そのひび割れは表面のテクスチャーを侵すことなく、ただ、調和を保ってその身体と共存していた。道具としては不能になったケトルは、それでも原型を留めたまま、ぼくに挑みかかってくるようにさえ見えた。

 ひどい虚無感と苛立ちがあった。でもそれも、30分もすればきれいさっぱりなくなってしまった。まるで都合良く、その記憶だけを削除したかのように。布団にうずくまったことも、堰を切ったように泣き出したことも、すべてが虚構の存在感をもって、今でも、ただ、あの過去に鎮座している。

 時折自分が異常なのではないかと思うが、それは理想化がすぎるというものだろう。ぼくは何も特別な人間じゃない。つまらない男だ。つまらない人生の結果として、この現在がある。

 陸の孤島の片田舎から都会に出てきて既に一ヶ月が経った。ひどい状況はなんとか切り抜けたが、認識まではどうしようもないようだった。ぼくはぼくという怪物を処理できないまま、ゆるやかに死に向かって歩いている。足取りは重い。多くの人がそうであるように。

 

 青春小説とぼくの間に断絶を感じたのは初めてではなかった。けれど、いまここにある絶望感は、そうした過去の断絶とは比べものにならないものだ。なぜって、読んでいる作品自体が面白いことは、痛いくらいに伝わってくるからだ。繰り返せば、まったくひどいものだ。ぼくの不寛容が、いま、この小さな文庫本をさえ傷つけている。

 こうも断絶があるものか。ぼくはそれを痛感していた。

 ぼくは高校生活の大半をあのくそったれな感染症とともに過ごした。ぼく自身も、そしてぼくの家族も感染こそしなかったものの、その影響は、多くの人がそうであるように免れ得ないものだった。

 とはいえ、それは微々たるものだったのだろう。父は──詳細は伏せるが公務員のようなものだし、母は専業主婦で、新型感染症による打撃は、世間の中では最も少ない部類の家庭だったはずだ。

 なぜそのような身の上話をしたのかというと、この後に連なる断絶を書くうえで個人の話は外せないと思ったためだ。これは言わばアンカーだ。ぼくを茫漠とした世界から個人の領域に、矮小なこの身体と人生につなぎ止めるための。

 ぼくは実際のところ、社会が言うほどにはあの感染症の影響を被らなかったと言っていいはずだ。無論それは相対的なものだし、主観的なものであるようにも思うが、とにかく、ぼくはそう書くしかない。

 ぼくはリモート授業を受けることもなければ、陰謀論に染まることもなかった。さすがに文化祭は中止になったし、その拡大版である総合文化祭も中止になり辛酸をなめることになったが、そんなことはほとんど問題ではない。ここでぼくが言いたいのは、しばしば上の世代が言う「抑圧」というのが、まったく実感を伴わない、浮動した言葉に変貌してしまっているということだ。

 無論、これもまた主観だ。いかれているのはぼくだけだ。どうかぼくと同じ世代の人間を責めないでやってほしい。

 とにかくぼくは社会と断絶していた。誰かの抑圧も、誰かの憐憫も、ぼくにとってはすべて他人事だった。

 例の感染症が流行しだしてから数年。学生の自殺者数が過去最多になったというニュースがあった。だが、その数字のセンセーショナルさが先行して、その詳細はあまり顧みられていなかったように思う。集計方法が間違っていなければ、あのデータの死因の中で最も多かったのは「学業不振」だったはずだ。体育祭がなくなっても、文化祭がなくなっても人が死ぬことはない。だが受験戦争のシェルショックは、確実にぼくらを犯し続けていたのではないか。そして、その痛みは今も続いているのでは。

 痛み。それを拭い去るものとして恋愛があるのかもしれない、と時折思う。

 非モテだとか、弱者男性だとかいう言葉もあるようだが、そんなものを持ち出すまでもなくぼくはそうした言葉たちが見つめる対象であるところの「健全な」世界からは遠く隔たっていた。だからその本質を掴むことはできない。だが、それは結局のところありふれたものの一つに過ぎないのかもしれない。圧倒的な信頼と、こう言ってよければ伝統的権威の傘の下に位置づけられている男女関係というのは、酸素のように存在し続けているのかもしれない。そして、ぼくはそうしたすべてを知らない。ぼくにとって恋愛とは常に虚構であって、演出され制御されうるものにすぎなかった。ただ、享受することだけができない。少なくとも、自意識と自己愛に充ちたこの種の表現を持ち出してこなければ何も語れないほどには、ぼくはその世界からは隔たっている。そしてそのことは絶望ではない。それさえも自分からは遠い。

 そうして、あらゆる時代評は、あらゆる社会評論は、ぼくの身体をすり抜けていった。

 断絶だけがたしかにある。それだけがぼくが社会に対して感じられることだった。抑圧でも包摂でもなく、断絶だけがそこにあること。それだけがぼくにとっての現実だった。

 そうした原理が小説を規定することはたぶん、健全で、またありふれたことなのだろう。しかし──それでは、この寂しさをどう処理すればいいというのだろう。

 そんなことを思いながら、ぼくは再びこの本を開く。